昭和49年12月29日 朝の御理解



 御理解 第19節
 「金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。」

 何処から唱えても拝んでも金光大神は時間、または空間を問わず、もうそこに生神金光大神の働きが頂けれると言う事です。もう地球上の何処の隅からお願いしても、もうそこに生神金光大神、お取次ぎの働きというのは、だから始まると言う事です。ですから又是はいうならどんなに清い所でも汚い所からでも、いうならお便所の中からでも良かれ場、風呂ん中ででも良いと言う事です。金光様と金光様を唱え申し上げる所に、金光様のお取次ぎ、お働きが頂ける。今度の報徳祭に御本部にお参りさせて頂いて。
 一番のお土産は教官の御信心が素晴らしい生き方になって行き行っており、その事を打ち出しておられると云う事。あの教官の最後の御挨拶の中で聞かせて貰った。もう何時の場合でも同んなじですけれども、教官が御挨拶がなさるというは、何時も同んなじ言わば紋切り型。同んなじ様な事ですね。皆さん遠方からお参りになって、帰るもまた無事に、どうぞつつがなくお帰りになって、そしてまた銘々のお教会であるご大祭を無事にお仕えになる様に、と言った様なご挨拶ですよね何時も。
 なんか其処までは対した事も感じなかった、むしろこう眠気が付きよった。所が愈々半ばから、自分の初心というか、信心を語られる段になったらもう、なんというですかね、あの会堂が生き生きとして来た感じでした。私も本当目が覚めました。ね、自分の信心を言わば語られる。その中に「自由にして想像的な金光大神を現す」という、言葉を使われましたですね。自由にして、想像的な金光大神。
 例えばあちらの教会の生き方は間違ってあるとか。ね、あそこが本当だとか。そんなね、金光大神というのは、そんなに小さい金光大神じゃないと言う事ね、そういう意味で合楽の生き方なんかは何時の場合でも実にあの想像的だと思うんです。しかもそこに生神金光大神を、まぁ現しておると言う事です。此処二十五年間の椛目合楽を通してその信心の変わり目、変わり目とでも申しましょうかもうずっとこう飛躍していっておると言う事なんです「来てくれと言う所には行ってやる」と言うなら自由自在。
 または自由無碍という、金光大神の働きを、受ける事が出来ると言う事は、どう言うどういう信心の程度の低い者、高い者。又は信心が解らない者の上にでも、ね、その働きを現される事が出来るのだ。又頂く事が出来ると言う事なんです。昔私が読ませて頂いた仏教の法華経。所謂日蓮聖人が、もう真宗でも禅宗でも、又は浄土宗でも、もうそれは全部もう駄目なんだと。仏教で一番素晴らしいのは、法華経だとというて他の宗派を大変まぁもう下ろされるだけ下ろされた訳ですね。
 と言うのは矢張りその法華経と言うのは、そのお釈迦様がご晩年の頃に皆に説き明かされたお話しが法華経なのです。ですから考えて見ると、私が椛目時代に説いて居った事。そすと現在説いておると言う事は格段な矢張り違いが有る訳なんです。だから椛目時代のが嘘だと言う事はない。その証拠には生き生きとして皆が助かって来とる。だからお釈迦様の、言うならご信心が最高度に高められた時点でお説きになった、いうなら御理解なんですお説教なんです。それが言わば法華経という経文になっておる。
 その法華経の芯になる所はどう言う所かというと。今日私が聞いて頂きました様な所なんです。金光大神は、言うなら形がのうなっても来てくれと言う所に行ってやるという、自由自在、自由無碍。だから私共がその自由な無碍な信心をです、ね、しかも、金光大神の信心を頂いておっても、例えば甘木の初代、久留米の初代石橋松次郎先生、同じ金光教で有りながら、矢張り違った感じでしたですね。結論すると同じなんです。ただ教導又は、現われて来ておるところが違ったんです。
 まぁ極端に言うと、甘木の初代というのは非常に、まぁ始末倹約をなさった方である。神様の御物と言わばもう枯葉、枯枝一枚でも粗末になさらなかった。お道を歩かれると履物が片ズレしたりすると、こう履き替えられた。タオルなんかはもう決して力いっぱい絞る様な事なさらなかった。タオルがそれだけ早く痛むというのです。それはもう徹底しておられた。ね、それは天地の大恩、天地の御恩徳が分かれば解る程、御物として頂かれた、そういうふうに現われた訳です。ね、
 ところが片や久留米の初代というたら、非常になんと言うですかね、派手と言う訳でもないですけれども、例えば汽車なら汽車でも、当時の二等車三等車という汽車。もう二等車以外には、お乗りにならなかった。着物なんかでも立派は物を着られた。例えばある時に帽子をお買いになる時に、ある先生が付いて行かれたら一番上等を見せて下さいと言われる様な生き方であった。ね、そしてそれはどう言う事かと言うと、身贅沢とか自分が良い物を好きだと言う事ではなくてです。
 金光大神の言わば、こけんに関わってはならない。お道の教師がです何時も、そのようかん色の焼けた様な、紋付を着とる様な事じゃ出来ん。尾羽打ち枯らした様な状態では、金光大神に対して相済まん。と例えば言った様なね言うなら、どこまでも道を思うとの一念。なら甘木の親先生だって同じ事。と言う程にね同じ時代で、大体時代が同じですけれども、そう言う風に違っておった様に。だから甘木の生き方が素晴らしいの、久留米が素晴らしいのと言う事はどっちも素晴らしいんです。
 だからどちらも言うならば、金光教の信心だと言う事なんです。なら是に例えば合楽が加わりましたら、また大変な違いがあるんです。それこそ自由にして想像的であり、金光大神の信心を頂いておっても、百人百様でありその人の個性とか性格が、その信心に現われて来る。結論は金光大神、天地金乃神様の御信心を頂いておる者として、是が本当だと確信する所からそれぞれの信心が、まぁ生まれて来る訳です。金光大神はなら甘木には行って助けてやるけども、久留米には行かんとは仰らなかった。
 そういう生き方の中にでもどちらにでも、金光大神の御働きと言う物が頂けたと言う事なんです。そう言う意味の事を、あの説いてあるのが、あの仏教の法華経だと言う事です。ある所に長者。億万長者がおられた。一人の息子さんがおったけれども、そういう長者の生活に飽いて、言うならば放浪お癖があったんでしょう。放浪の旅に出てそして長年帰って来られなかった。長者はその事を非常に痛く心を砕き痛めておった。あれに財産を譲らなければならんのに、その一人息子が居なくなったのですからね。
 所がもう行き詰まりに行き詰まり尾羽打ち枯らして、その息子がある時所謂故郷に帰って来た。そしてその門の窓口から中を覗いて見るとです、お父さんがそれこそ王様の様に振舞っておられ、その周辺にはもうきら星を飾る様な召使い達が、の中に取り巻かれておる、その様子を見られた。ね、そこで自分が今こういうです尾羽打ち枯らした状態でです、入っていったらどういう目に合うか解らん。
 もう自分の息子というのも解らないかも知れない。そしてあぁいう立派な所に入っていったら、もうそれこそまぁどういう目にあうか解らんというので、もうそのまままた出て行かれた。それをチラッとその長者がみて今のは自分の息子だと。早く後を追えというてまぁ行ったちゅうんです。所がその立派なその服装そうした人が一生懸命おうて行くもんですから息子さんはどんどん逃げだしたもう捕まえられたら大変と思うて。
 そこでその立派ないかめしいその服を脱いで、そしてまぁ乞食同様の格好をしてそしてその息子さんの所に行って、色々話をしたというのです。今あんた大変難儀をしておられる様だが、ね、まぁ解りやすく言うならね、何処どこの工場で人夫を今募集しておるから、そこに世話するから、あの努めて見ないかと。そしたらそんならそげん所があるなら、世話してくれというので、まぁ工場なら工場に、その職工職人ですかね、まぁ人夫として、まぁ雇われる事になった訳です。ね、
 実をいうたら親の願い、親の思いと言う物をです、ね、解らせたいのだけれども、そういう立派な所にはもう逃げたして来ておるのが、その息子さんですから、ね、親はそのちゃんと給料もどんどん上げてやる。少し仕事が出来るともう普通の職員、人夫じゃなくて、もうまぁ監督位に直ぐなしてやる。ね、次にはもう是から是まではお前が責任を持ってやってくれという風に、その仕事の方もしてやる。ね、もうその副社長なら副社長にまでにも、まぁいうならば出世する道が。
 その親の思いと言う物があるのですから、どんどん上にあげてやる。ね、そうして言うならば、綺麗な服も立派な家も、に住もうてもおかしくないと自分がそれを考える様な時点でです、ね、実はあんたにその長者の全財産を、全部譲りたいと言うておられるから、それを受けてくれと言う事になったと。と言うそういう話が、あの法華経の芯と言う事を聞きました。信心も何にも解らないものにです、ね、今の合楽の信心を聞いても、言うても解らんです。そげな事があるもんかと。ね。
 そして逃げて行く訳です。段々分かって来て例えばなら合楽で、もう日々なら本当に目を見張る様な奇跡が現われておると言う事実も、成程合楽でならばそう言う奇跡も起こるだろう。まぁ起こるはずだと、言うものが解って来る時に、合楽の信心を本気で聞こうと言う事になるのです。合楽示現活動と言った様な事を、例えば私が申しましても合楽は結局、自分の教会だけ繁盛すりゃいい。もうよその信者でんなんでも取ってしまう。合楽とそう言う風に、例えば言われ思われておる向きが沢山ある訳です。
 だからそういう人達がです、本当に合楽示現活動を、本当に研究してくれれば、解るんだけれども、その研究しようとしない。ね、そこで程度の低い所からです、言うならば、ね、奇跡的なおかげで身を見張わせておいて、ね、そして信心はなくてもね、唯縋るという気があれば、奇跡を見せると言う様な簡単な、言うなら生き方。ある教会の先生が、椛目を当時の椛目を評して、椛目はおかげだけは起用に渡すけれども、信心を渡しよらんと言われたと言う事です。ね。
 本当いうたら合楽の、椛目の場合から、こちらへ移らせて頂いてでも、言える事は本当は、合楽ではもう御理解一本ですから、言うならば信心を聞いて頂いて、渡しておるはずなんですけれども、それにあまりにおかげが伴うもんですから、所謂おかげおかげというのは低級だと言う訳なんです。ね、奇跡を現すと言う様な事はもう程度の低い信心だと言う事なんですね、だからそういう人達にもです、なら金光大神取次ぎの働きが本当に分からせると言う事はですね。
 例えば本当にない例えば医者が見離した病人でも助かるとか。もうどうにも出来ない問題が解決するとか。そういう働きを見せてからでも、最高度の金光大神を解らせたいとする、矢張り金光大神の願いであり天地金乃神様の、金光大神を通しての願いなんです。成程おかげに終止するなら程度は低い。けれども程度が低いと言うても頂きたいのがお互いなんです。ね、そこで法華経に、中にお釈迦様が説いておられる様にです、ね、一遍ルンペンの様な状態の、に息子が落ちぶれてしもうておるなら。
 そこまで親が降りて行って、そしてそれに相応しい仕事を付けたり、給料をあげたりしながらです、ね、長者としての資格をやろう、または譲ろうとする親の働きがある様にです、ね、金光大神取次ぎの働きと言う物はです、もう自由にして自在である。自由無碍である。どういう程度の低い所にでも降りて行ってそこから一緒に信心をこう、高めて行こう。言うならばお道の信心ですね、お道の信心の心情信者信奉者の、是は皆の願いでなからなければならない、目指しとする所は生神金光大神の境地だと。
 そう生神を目指す事だと言われております。けどもそういう高度な事を、なら言いましてもです、いや私は生神金光大神てん、生神様にならんでんよかと。もう現在今食べたい物を食べさせて貰たい、今いる金を此処に用意して貰たい。今この病気を治して貰たい、と云う訳なんです。ね、だからそういう信心は、程度が低いから、ね、そう言う事を通して生神金光大神を目指せというても、耳を貸さないでしょう。
 だから、そういう程度の低い人には、程度の低いところに、金光大神が降りて行かれて、そして目指すところは、ね、そう生神。ね。生神金光大神を目指させて頂く。我とわが心が拝めれる様に成る様な心の状態をです、願われての事なのです。だから法華経が最高だと云う訳です。いうならば、生神金光大神を目指させて頂くその、過程を説いたんだと言うんです。ね。その過程の中にはです、ね。
 言うなら「形がのうなっても、来てくれという所には行ってやる」と言う様な働き。それこそ便所の中にも、神様は行って下さる。お風呂の中にも行って下さる。畑で肥えを掛けておっても、そこにも金光大神が行って下さる。金光大神はもう高度な、もうそういう汚い所には行かんというのではなくて、自由無碍な働きがお出来になると言う事を、この十九節は説いてあると思うんです。
 そこで私共がです金光様を唱え、金光様と唱える所には金光様が行って下さるのですから、ね、そこに金光大神取次ぎの働きが始まるのですから。終止何時までも、なら程度の低い思いやら願いばかりで、信心を高めよう進めようとしないならば、是はどう言う事になるでしょうか。ね。もう幾ら金光様を唱えたっちゃ、いっちょんこの頃おかげ頂かんごとなったと。初めの間はようおかげ頂きよったばってんと言う人があるでしょうが。ね、この頃から大黒様の奉祭の事でもそうです。
 もうそれこそもう毎日お金のお供えせん事はなかちうて、喜びよってんこの頃大黒様利かん、利かんごつならしゃった。ね、大黒様が悪いとじゃない。こっちの拝む心が斬新さを欠いておる。又は何時までも幼稚園、何時までも子供の様な願いをする者に、ね。例えばもう十五にも、二十歳にもなってからです、ね、五つ六つの子供がおやつをねだる様な、生き方であったらどうなるですか。お前ばっかりはもう幾ら年とって、本当馬鹿んごたる、と言うてから、親が嘆くだろうと思うです。ね。
 そしてそうかそうかというて、とてもやりゃしませんよおやつでも。それと同じ事。ね。金光大神と共にです、私共も矢張り信心を高めて行かなきゃいけない。ね、言うならおかげの世界からです、言うならばお徳の世界に住み替えて行く事の願いを持たなければいけないです。それに五年経っても十年経ってもね、ただ自分の言いたい放題。言うなら自分達のね、言うならば我が儘な願いに、から一つも外れて、それから進もうとしないならばです、おかげが受けられん様になるのが当たり前です。ね。
 金光様は行って下さる。何処にでも行って下さる。来て貰うただけじゃいかん。おかげの働きが始まらにゃいけん。だからおかげが頂けん様になったというのも、それは金光大神お取次ぎの働きなんです。そしてなら私共に気付かせて下さろうとする働きなんです。昨日はある所から丁度、朝の私が此処を下がろうしておる時分に、お参りして方があった。先生に今日は、もうそれこそ誰にもお話をしない、又すれば笑われる。いうなら家内にも、だからお話しとらんけれども。
 愈々思う所があって、今日は合楽の先生に聞いて頂こうと思うて、というて話されました。二、三年前に交通事故に会われた。自動車が潰れた。三十万ぐらい掛かる所を、六十万円金を取られた。もう向こうがそん時に泣く様に言うて、五十万にまけちくれちうた。けれども、しゃっち六十万円かかったというて、六十万円取られた。所がその六十万円で、耕運機を買われた。田は一反半位しかしとらんとに、買わんでんよかつじゃけれども、そのまぁお金が入ったから、耕運機を買うた。
 所がその耕運機から二回落ちた。二度目にはそのお尻の骨がどうか、こう曲がる様な事になってしまった。子供も今年から学校にあの上の学校にやらなきゃならん。先生実は今年は一年の間に三十五日しか働いておらん。働けんごつなった近所のもんなあるが金ば沢山とったけんでもうあげんして、その楽しとるとじゃろういうけれども、ね、家内にでもその事を言うとです貴方があん時に、あげな事したけんで、罰かぶったち言われるごつないけん、家内にも言われんち。
 近所んもんなそう言う風に言うとると云う訳。だろうと云う訳です。ね、そしていうなら、天罰覿面と。私はこういう過去に割る事をしております。そしたらこの頃から又今度は自分が人に怪我をさせた。所が相手の方がもうそれこそ仏様の様に良い人じゃった。それでこりゃ、どげん言われるじゃろうかと思いよったけれど、それはおかげで、僅かで済ませて頂いたが。自分の三年前の生き方とその人の生き方が余りに違うのでです、是は自分の生き方を変えにゃいかん。
 あん時もし六十万円という金を取っていなかったら、耕運機も買わなかっただろう。買わなかったこげな、病気もしなかっただろうと、いま悔やんでおりますというのです。けん私はもうしました。貴方の心がそのままで進展したらおかげ頂くよち私が。ね、そがしこお道でいうなら、お気付けならお気付けと言う事を気付かせて頂いて、是からはそげは悪い事は決してしませんと言う様な、あり方になって神様にお縋りする気になりゃ、貴方が助かるよと。ね。
 だからこの次には、奥さんも一緒に連れて参っておいで。自動車で四十分間掛かる所から参って来た。というのです。ね、だからそう言う様に、お互い信心をさせて頂いておってです、ただおかげおかげに終止せずにです、ね、だからそういう場合に、なら大黒様は拝むけれども、おかげ頂かんとか。以前は金光大神様を拝んで、参ってお取次ぎを頂きゃおかげ頂きよったのに、この頃おかげが頂けんごとなったと言う事は、もうそのままがそれはお気付けなんです。
 この頃金光様聞かっしゃらんごとなったのじゃないです。自分の心が進展してないのです。ね、だから其処に気付かせて頂いて、今までの生き方を改めてもう少しましな、神様に喜んで頂けれる様な生き方、有り方というか、信心に進ませて頂いて始めておかげも又生き生きと戻って来る。だけではないもっと垢抜けしたおかげが頂けて来るようになるのです。おかげの展開というのはね、信心が展開して行かなければ駄目なんですね、成程金光大神は来てくれという、どんなに程度の低い時代であってもです。
 我情我欲の事でも神様は聞いて下さる。ね。極端な話をするならですね、例えば良か女子にあいげ行くと、言う様な事にでん神様がお繰り合わせを下さった時代がある。けれども何時まで経ったっちゃそんな事ばしておるならです、ね。今日は運転免許証を忘れましたから、どうぞ途中で引っ掛からんごとお願いします。引っ掛からんです。お願いしてあるからけれどもね、運転免許証は忘れておってもです、持って行かんでもです、親先生にお願いしときゃ引っ掛からんから。
 と言いよると引っ掛かるですね、そう言う事が何時までも許されえる筈がないです。他に女子作っておって女子がそげな事で何時まんでんよかろう筈がないですね、だからその間には必ず今言う様にお気付けを下さるのですね。そしてその法華経じゃないけれどもです、ね、少しでも本当な物をやりたい、本当な物をやりたいという働きが始まるのですから、本当な事へなって行かなければ、神様が本当に下さろうとするもの。「氏子信心しえおかげを受けてくれよ」と仰る。
 「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と言う事は、氏子信心して御神徳をうけてくれよと言う事なんですよ。でなかったら本当のおかげじゃならんもん、願うた事だけが成就した様な事じゃ人間な絶対幸せにならんです。今病気しとっとが良うなったからもう幸せになるとじゃないです。今金が足らんとのお繰り合わせを頂いたから助かるのじゃないですね問題は自分の心自体がです、なら自分ので自分の心が拝み拝みたい程しの心の状態になって行く時にです、初めて神様のご信用も付くお徳も頂ける。
 そのお徳には人間の、いうならば降伏の条件と言う物の、全てが足ろうて来るですね、そういうおかげを受けてくれよなんです。ね。今だから私は合楽で説きよるのはです、いうならば、ね、日蓮聖人様が法華経が一番だと言われる様に、今合楽で説いておる事は、もう私はね、言うならばあらゆる宗教宗派のなんですかまぁ、金光教というてもいいでしょう。金光教の沢山の教会があるけれども、一番最高の事を説いておるのが、今の合楽示現活動に、参画すると言う事なんです。ね。
 そう言う様に本当に参画させて下さいとこっちが願うて、天地金乃神様が喜んで下さる。神も助かる氏子も立ち行く、合楽の世界を顕現していくと言う所に現在の合楽はあるのです。だからその自覚に皆さんが立たなければ駄目なんです。何時までもどうぞお繰り合わせを願うという、願うちゃならんじゃない願わなにゃならん。けれどもね高度な信心を根本にしてからの、その願いじゃなからなければいけないと言う事なんですね。
   どうぞ。